大森浅間神社は其の流れをくみ、富士浅間とも称せられ、江戸時代当時隆昌を極めた山嶽信仰に基いて富士浅間神社を東海道通路の要衝大森の地に勧請奉斉せられたものと伝えられております。又藤浅間とは富士浅間の意と思われますが当時境内に藤の大樹があり陽春4月の頃には藤花盛にして附近の名物として知られた処から藤浅間の名が生まれたものと思われます。右の藤樹は明治初年頃まで残存し、尚数歩を隔てて御手洗いの側には杉の切口凡そ目通り6尺以上と思われるものもあり、樹齢300年を経たと思われる老樹が繁茂していた事は古老の伝える処であります。
柳々旧大森には、澤田、谷戸、浜端、川端、堀の内、原等の地名があり、徳川末期に陳屋があって陳屋堀があり、其の内を堀の内と云い、地名澤田とは現当神社氏子区域であって、古くは馬込、池上の山より海に出る所一面の澤地であって芦など生茂っていた所から此の地名が生まれたものと思われます。